高専生ホサカの日記帳

Twitter:@hosaka222

価値観の違いのお話

「人を理解する」とはどういうことかと考えた。

 

例えばトランスジェンダーの人を理解する、障害の持っている人を理解する、貧困の人を理解する、被害者の人を理解する、加害者の人を理解する(?)……etc

 

この「理解」には何が含まれているのだろうか。「理解」でググってみた。

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前者は、よく学問とかを勉強するとき、または文章を読んでその意味がわかったときに使うものだろう。

対して後者は、人と人のコミュニケーションのときに使われる。上の例だとこちらが当てはまる。

 

 

コミュニケーションの失敗

さて、よく人とのコミュニケーションでは大概誰しも失敗した経験を持つと思う。それは価値観の違いなのではないかと考える。

 

A「普通これはこうするだろ!!」

B「え!??そんなこと最初に言われなきゃわかんないじゃん!!!!」

A「なんでわかんないのぉ!??(頭悪いの的な)」

そんな会話はお互いの「自分の普通」が異なり、かつ「相違の許容量」を越えたときに、怒りなり悩みなりになるわけだ。

 

「自分の普通」を変えることは難しいため、もっと他人に寛容になり、相違許容量を増やし、頑固にならないことが重要ではないかと考えた(これも難しいが)。

 

だが、自分でこれを書いてて矛盾している気もするが、「わかってくれ」というのも中々暴力的であると感じる。

 

サイコパスが刃物を持って、「この腐った世の中を変えるには君の死が必要なんだ!さあ死ね!!」

さすがにこれは寛容になれない。人に危害を加えてるという点でダメ?

 

では、親しい人が「この水素水体にいいのよ~~~~~~~~」と言っているのはどうか。残念ながら自分はこれにも寛容になれない。「今すぐにそのインチキクソゴミ偽科学をやめろ!!!!!」と叫びたくなってしまう。

 

ああどうしたものか。自分で自分に王手をかけている気分だ。

 

 

何をどうなったら「わかる」状態になるのか

 

「わかる」「理解した」とは。3つ考えた。

・何か報告とか指示されて、「了解」したら「わかる」?

・他の意見に「なるほどそんな意見もあるのかそれもアリだな」と「納得」したら「わかる」?

・他の意見に「なるほどそんな意見もあるのか、でもやっぱ俺はこっちで行くけど君はそっちなのね」と否定するわけではないが相手を「許容」でも「わかる」???

(・「どんな意見があっても知らねえ!俺は俺の道を行く!」って聞く耳持たないのは論外)

 

「あなたのことを理解したいのに理解できない!」ってのは「許容したいのに言うことが納得・了解できない!」って状態だ。

 

 

もうなにもかもがわからない

 

 

 

あたまわるわる^~